『身体の声を聞く』4.平等に見守る

『身体の声を聞く』という自分自身との向き合い方のブラッシュアップ。

ここまでを簡単にまとめてゆくと、

・私たちがマットの上で、アーサナや瞑想を通じて受けとる声=感覚はシンプルに分けると二種類。

・それは受け入れやすい"心地良さ"と受け入れ難い"違和感"。

・瞑想ヨガで目指す感覚の深まりは"すべてのありのままを見守る"こと。日常的な感覚との隔たりがあると、いきなりその感覚を育むの難しいもの。

・だから向き合う感覚をあえて二種類に仕分けし、それぞれの感覚の特性を捉え直したり、"分別"のフィルターを薄めたり、沸き起こる感覚を"個性"としてら捉える練習をしてゆこう。

平等に見守るということ

あえて仕分けすることでそれぞれをじっくり捉え直す機会を設けてきましたが、そうしたことはこの"平等に見守る"という向き合い方に結びつけてゆくためでもありました。

瞑想ヨガでは『全てをありのまま見守る感覚の深まり』を大切に育んでゆきます。
そんなとき実際にはどんな風にありのまま漂う感覚に耳を澄ましているのでしょうか。

その答えが"平等に見守る"ということです。

あえて分別して取り組んできた流れで言うならば、
"心地良い感覚"としての声も"違和感"としての声も"平等に"感じ受け取っているということです。

平等に耳を澄ましたら全てをありのまま見守る感覚は自然と深まってゆく、という言い方もできますね。

対象を選りすぐったり、限定するわけではなく、
良いことだけをかき集めて平安を見いだそうとしていくわけでもなく、違和感を排除することで平和になろうとするわけでもなく。

マットの上でアーサナを通じて出会う色々な感覚を、一貫した態度で"平等"に聞こう、見守ろうとしてゆくことが、このシリーズ『身体の声を聞く』の最大のメッセージ。
そして私たちがマットの上で繰り返し練習してゆける実際のアプローチです。

そういう向き合い方を自分自身に向けてゆくこと。
マットの上はそんな練習の場としてもってこいです。
その積み重ねは必ず『ありのままの自然さを見守る感覚の深まり』へ私たちを導いてくれることでしょう。

事実をシンプルに受け取る力

例えばcさんという人がいたときに、aさんはaさんの個性や事情でcさんを好きだとします。
bさんはbさんの個性や事情でcさんを嫌いだとします。

cさんはcさんとして個性を放っているだけなのですが、それを受けとるaさんbさんそれぞれの都合で、cさんは好かれている人にも嫌われている人にもなっています。
まさに、変幻自在!!ですね(笑)。

どうしてこのようなことが起きるのでしょうか。

それは、受け取る側が、その個性や好み、その時の都合などによって生じる分別のフィルターを介してcさんを捉えているからです。

でもシンプルに、事実だけを受け取るとしたら?
そう、cさんはcさんです。

"平等に見守る"ことを育むためには、この"事実をシンプルに受け取る力"がとても役に立ちます。

私たちは物事を捉えてゆく上でたくさんのクセを持っています。

心地よい感覚に対しては、私たちは執着しすぎる傾向があったり、心地よさこそが内面に平和を運んでくれるものだと捉え、心地よさ収集を頑張っていたりします。
違和感に対しては、どうにか排除しなくてはとその声を深く聞いてみようともしない傾向があったり、
反対に漠然な負の印象に捕らわれすぎて飲み込まれていたりします。

いろんな対象を捉えるときのクセ、マットの上で身体の感覚を受け取るときのクセ、自分自身を捉える上でのクセ。
そういうクセは過去の経験や思考などからやってくるものですが、より深くをたどれば、そもそもの物事の捉え方のちょっとした(でもとても大きな)勘違いから起こるもの。
ヨガ哲学の中でもしっかり説明されています。
(このシリーズの最初にも記した『無知』。それについてはまた別の機会に…(笑))

沸き起こってくる感情、自分自身と強く結びつけることで生じる好き嫌い・損得など、誰にでもあるクセというフィルターによって隠されているシンプルな事実。

シンプルな事実はいつだって目の前にあるものです。

それを前にしながらも、クセというフィルターがシンプルさを、とても複雑なことのように遠ざけてしまうという傾向があるからこそ、
あえて分別しながら、対象がそれぞれ持つシンプルな事実を"個性"として見守る道筋を説明し、実感してきました。

全てをいっぺんに変えてゆくことはなかなか難しいこと。
少なくとも、私自身はヨガを通じて、こんな向き合い方を時間かけてゆっくりと理解し実感してきました。
春のあたたかい陽射しが冬の雪をゆっくり溶かしてゆくように。でも確実に変化をもたらしながら。

"ありのままの自然さを見守っている"感覚がどのように私のなかに根を下ろしてきたか、
逆再生するように辿り返してみると、そういう向き合い方がが今ほど(今もまだまだです(笑))実感として深く府に落ちていない頃、最も役立ったこと、大切に実践し続けてきたことは、この"事実をシンプルに受け取る力"とともに、平等に見守ってみようとする努力、信念だったように思います。

それは、もしも"平等さを保てない"というシンプルな事実が目の前にあったら、そのことをも平等に見守ってゆくということ、これは私も通ってきた道です。

その事実から沸いてくる歯がゆさや不甲斐のような感情を受け入れたなら、それ以上でもそれ以下でもなく、ありのままの自分との足並みが揃ってゆきます。
それでこそ、必要な努力を自然と継続することも出来たし、何よりもシンプルに受け取ることで心が休まりとても楽になりました。

事実をシンプルに受け取る力を育むこと。
そして受け取るどんな事実も"平等に見守る"こと。

そうあろうと努力してみたら、きっと普段とは一味違う実感が皮膚の内側に広がることに気づくはずです。

その実感を言葉で表すならば、より深いところから広がる安穏、穏やかさ、静けさ。
言葉を越えて、ぜひ実感してください!

内も外も"平等に見守る"

自分自身の中に沸き起こるあらゆる感覚を平等に見守ること。
それは一体何のためなのか。
そのことを最後にお伝えしておきたいと思います。

このことは、たくさんの方へヨガを伝えさせていただく上で、私自身が最も強くメッセージしてゆきたいことでもあります。

ヨガは常に、マットの上で自分自身と向き合うことから始め、それを繰り返してゆきます。
自分自身のありのままを受け入れてゆくことで、自分観にステキな変化がもたらされたり、自分が自分に対してオープンに開かれてゆく解放感や安心感を味わってゆくこともあるかと思います。
そのことはとても大きな、そしてステキな実感です。

そんな時こそぜひ思い出してください。

そんな風に自分自身の内側でありのまま自然に沸き起こるものを見守る感覚の深まりを、
同じように平等に、自分以外の人や物事がありのまま自然に振る舞うことを受け入れることに、どうぞ繋げてゆけますように。

このことを忘れてしまうとオープンさが一方向のみしか扉を開いていない状態に陥ってしまいます。

自分は確かにありのまま、解放感いっぱい。
そうであるがゆえに、自分以外を認められなくなったり、自分のありのままを必死で守ろうとしてしまったり。

自分への向き合い方は世界への向き合い方の縮図です。

だからマットの上でアーサナを通じてひたすら自分自身と向き合うことからすべては始まってゆきます。
そこで立ち止まってしまわずに、より日常的な言葉で表すならば、そのように外側の世界も見渡してみたらよいのです。

"自分だけ"でもなく、"自分以外"だけでもなく。

自分の存在を大切にするのと同じように
平等に
自分以外の世界を大切にしてゆく。

そんな風に、同じように、同じくらい大切に感じているというところから見渡すと、
"自分と自分以外"という境界線がそこには存在していない=自他の境界がなくなってゆくわけです。
本などでもよく使われているこんな表現も、より身近に府に落ちてくるのではないでしょうか。

マットの上であなたがあなたにどれだけ心を込めて耳を傾け、そのありのままを受け入れてゆこうとすることは、
あなたがあなた以外の世界で起こるありのままを受け入れてゆく力を育むとに通じているんだっていうステキな繋がりを、いつでも感じ続けていてください。

その上で全力で、皮膚の内側を平等に見渡そうとすることから、今日を始め、今日を終えていこう。

私はいつもそう想っています!!

1harmony yoga

yoga and meditation