『身体の声を聞く』3.違和感を許す

瞑想ヨガのゴールは『全てをありのまま見守る』感覚の深まりです。

そんな状態では、良い・悪い、好き・嫌いの分別が日常よりも薄らいでいるということは、前回のテーマ「心地良さに気付く」でもお話しました。

関連記事 : 心地良さに気づく 
今回テーマにするのは"違和感"。
否定的に捉えやすいこの感覚に対しては、どんな風に向き合うことが、結果的に瞑想への深まりに通じてゆくのでしょうか。

分別のフィルターを取っ払う

日常的な感覚の中では"違和感=排除すべきもの・良くないもの"という分別が起こることは、本能的にも自然な反応、自然な欲求である場合もあります。

ここではひとまず、マットの上というある程度安全な空間にあることを前提にお話を進めてゆきますね。

例えばマットの上でアーサナや瞑想を行っていて、身体に違和感を感じたとします。

この違和感に、今シリーズで大切にしている捉え方のベース『身体の声を聞く』ような向き合い方をしてみると、その声は身体からのメッセージということになります。

何か理由があってそこにその感覚があり、そのことを伝えるために身体がそういう感覚=声を発していて、それを"違和感"として受け取っているということです。

『身体の声を聞く』ような向き合い方をしていない場合、ネガティブな感覚や違和感を覚える対象は、即座にどうにかしなくてはならない、排除すべき、責めるべきものとして捉えがちです。

そう捉えているとき、そこに"分別"というフィルターが色濃く存在しています。

"違和感=排除すべきもの・良くないもの"というフィルターが色濃すぎると、そもそも『身体の声を聞く』という向き合い方に辿り着くことも難しいかもしれませんね。

でも最初に述べたように、日常的な場面ではこの分別のバランス感覚は必要なものでもあるのです。

ただ、無意識のうちにそのフィルターが色濃すぎる状態のままにマットの上で身体の声を聞いていると、
良きものはかき集め、良くないものは排除するような"分別をベースにした連鎖"をマットの上で育むことになってしまいます。

思い出してください。

瞑想ヨガで育みたい感覚は、いろんなことのありのままをおおらかに眺めているような感覚の深まり。
それは分別をベースにして眺め続けていては、育まれない部分でもあるのです。

だからまず安全なマットの上で、自分自身という存在の中にある違和感を覚えるような声=感覚を"良くないもの"とする分別のフィルターを介さずに捉えてみることから始めてゆきましょう。

分別のフィルターを取っ払ってはじめて、その声は"違和感"ではなく"身体の声"になってゆきます。

違和感は個性!

では、分別のフィルターを取っ払ってニュートラルに感じ取ってみましょう。

その感覚。
何がどうなってそうなのか。
よーく感じればわかること、よーく感じてもわからないこと。

自分という範疇にあるような身体の感覚でさえ、明快に理解していることばかりではありません。
いえいえ、もうほとんどがよくわからないことだらけ(笑)。
それもそのはずですね、それほどに素晴らしいシステムや繋がりのなかで身体は存在しているのですから。

でもとにかく何か繋がりがあって、その感覚(分別モードで言うところの違和感)が今ここにあること、それは事実です。

理由はわからなくても"確かにある"ということは、聞けば聞くほどに明確になってゆきます。

では、フィルターを取っ払って受け取ったその感覚をどんな風に捉えてゆくことが、瞑想ヨガの深まりのために必要なのでしょうか。

それは、その声(違和感)を"個性的な感覚"として捉えてみることです。

違和感を覚える声・感覚は、ちょっと雑音が大きめで、荒々しくて、アピールも強い、やかましい(これは私のイメージです)。

そういう個性、そういう趣、そういうカラー。

すごくシンプルに言ってみれば、違和感にしても、それ以外、例えば心地良い感覚にしても、
私たちはマットの上でアーサナや座法瞑想を通じて、様々に個性的な感覚と出逢っているのです。
それぞれすごく色鮮やかに、躍動感に満ちみちて、個性を放っています。

このあたりはぜひ、知識としての理解に加えて実感していただければと思うところです。
そんな実感の中では、違和感と捉えていた感覚すらも、今のありのままの自分を彩っている大切なひとつの欠片であることに気付けるから。

実感としてそう府に落ちたなら、違和感をますますフィルターなしに、むしろ肯定的に受け取っていくことも自然と深まってゆくものです。

違和感こそ貴重な声

違和感として捉えていてはその真意を汲み取ることが難しいため、フィルターを取っ払い、個性としてニュートラルに感じ取ってみることを、ここまでお話してきました。

分別のフィルターを取っ払い、個性として受け取るその声は、耳を澄ますほどに身体が語りかけてくるよう。内なる声との出逢いです。

そんなニュートラルな向き合い方をしてみると、でもその感覚(分別モードで言うところの違和感)はやはり何かしら強く伝える必要があって、騒がしく沸き起こっている感覚であることにも気付くことが出来ます。

そのことに、ここで改めて立ち戻ってみましょう。

何かしら緊急事態だったり通常モードでないからこそ、ざわつきが強いのです。

このテーマ『身体の声を聞く』では、そんな違和感をどう捉えるか=個性的な感覚として捉えてみる、という向き合い方として実践やお話を進めていますが、
そういう向き合い方をベースにしながらも、そんな感覚はやはり調整を必要としている部分でもあるのだということも知っておきましょう。

言い換えるなら、そこは自分も知らない自分、自分や身体を捉え直してゆくために必要な情報がたくさん込められた部分でもあるのです。

違和感として忌み嫌って放置するのは本当にもったいない!
むしろ宝箱だ!って、私は思います!!

表面的に捉えたら、その声さえなければ静かなのに、穏やかなのに、って責めたくもなるかもしれませんね。

でも起きていることには、きっと何か理由があるはず。

その理由が明確にわからない時でも、勇気を出して、愛をもって、その相容れないと感じる部分が一体なんなのか、どこからその感覚が来るのか。

時に辛抱強く向き合ってみたら、むしろ身体は愛をもってこちらに語りかけているんだということがわかります。色々教えてくれているんだって。

そんな内なる声は、じっくり耳を澄ますこと(=意識を向けること)自体で、自然と和らいでいくものもあります。
対して、それでも鳴り止まぬものもあります。

だから、アーサナなどによって身体調整をしてゆくこともとても大切なことです。
ヨガの深く広い世界観の中ではそういう方法もきちんと提示されていて、
それを元にしながらクラスでは調整のためにもアーサナを行っています。(今回のテーマではこの調整についての具体的な方法については言及せずに進めますね。)→3月4月のシリーズ【調整~ヨガ的な努力】がこれに当たります!!

今のありのままの自分をよくよく知る機会が含まれているからこそ、違和感は貴重な声。
その声は本当の意味での深い調和や静寂へ向かうヒントを、いつだって語りかけてくれているのです。

違和感×ありのまま見守ること

最後に"とは言っても、頭で理解は出来ても、実践が難しい!"と感じるときのために、とても大切なことをお話しておきたいと思います。

調整したり、肯定的に捉え直してみたり、それでもやはり慣れ親しんでいる反応として分別モードから抜け出せないこともあると思います。

真摯にヨガをしてゆこうと思えば思うほどに、理想と現実の狭間で目指すところが途方もなく遠くに感じられることもあるかもしれませんね。

そんな時、思い出していただけたら嬉しいです。

いつだって、同じ。
うまくいかないと感じるとき、そう、私たちが今まさに出来る最大限のことは、その現実を聞いてゆこうとすること。

目指したい方向があること。
そこには程遠いと感じる、今の自分がいること。
きっとそのことにも、何か理由があるはずだから。

そのありのままの欠片とともに、また何度だってマットの上に立ち、アーサナや瞑想で内なる声を聞き続けてゆきましょう。

急がず、焦らず。
嘆く必要なんてなくて。
そう感じるからこそ、ヨガに出逢えて良かったなって。

マットの上には"実感"があります。
より鮮明に実感するために、頭で理解することもとても大切なこと。このコラムなんかを活用していただけると嬉しいです。

それでも実感を大切にしてゆきたいのは、実感としてストンと府に落ちると、それは確かに自分の肥やしになってゆくから。
自然とマットの上から日常へ広がり、日々を豊かにしてくれるパワフルな支えとなってゆくから。。

そんな風ににじみ出るほど内側に満ちるまで、意識的な練習を繰り返すことが必要なのは、誰にとっても同じことです。

日常的な感覚とは少し程遠いような捉え方だからこそ、少しずつでも着実に実感を繰り返しましょう。
"違和感を許す"ことに繋がる向き合い方のエッセンスを大切にしながら、マットの上で過ごしてみてください。

1harmony yoga

yoga and meditation